【入院 前日 5/8(水)】
昨年 12/13に腸閉塞の手術をして、小腸の閉塞部分を数センチ切除して年末の 12/30に退院した。
1月10日ころに、鼠径部にシコリがあるのに気付いた。今まではそんなことはなく初めての出来事。シコリがあるだけで痛くも何ともなく、そのシコリも常時ある訳ではなく時々消えるので、そのうち消滅すると思いほって置いた。
しかし時間の経過とともに、シコリは常時出るようになったので 3月の診察時に見てもらうと鼠経ヘルニアとの診断。
それまでは何ともなく、腸閉塞の手術後に発生した出来事だったので手術に関係しているのか、もしくは
24h点滴が腕から入らなくなり、鼠径部から点滴したので、それらが関係しているのか聞きたかったが、疑うようで聞けなかった。
手術を勧められたが、突然のことだったので返事は曖昧にして、その時は見送った。
次第に状況は悪くなるようで、痛くはないが異物感があるような気持ち悪さがあり気になって仕方がない。病院からもらったパンフレットを見ると、手術以外で治ることはないとの事。ということは自然治癒はない。
という事で 4月の診察日に、手術する事で調整。
緊急手術ではないので、主治医のスケジュールの開いている約 1か月後に手術することになった。
開腹手術を過去に 2回しているので腹腔鏡手術はできないので全身麻酔での開腹手術になるとの事。3日ほどで退院できるとの事。
という事で、入院するため病院に行く
3日程という事だったが、1週間は覚悟してその分の着替えをもって入院。手術説明があるので山の神に改めて病院に来てもらう、娘もついて来た。
手術前日なのに夕食は普通食が出た。
【入院 2日目 5/9(木) 手術日】
入院時に手術時間は未定だったが、10時手術に決まり朝から浣腸
手術時間は何もなく早ければ 30分、普通 1時間くらいの手術との事だったが、病室に戻った時間から手術は
2時間くらいかかった感じ、診療明細書の閉鎖循環式全身麻酔5の項には 2時間05分 とあった。
昨年の12月の時は、手術室で「終わりました」の声で麻酔から覚め、病室への移動も覚えているが、今回は手術直後の事は覚えてなく、病室への移動も酩酊状態で病室に戻ってから麻酔が覚めた感じだった。
術後安静 3時間という事で、3時間後に尿の管を抜く、引き抜くとき痛かった。前回は数日入れっぱなしだったにも関わらず、抜いた時痛かったという記憶はない。
抜いた後、ベットに起き上ってT字帯を外し自分でパンツをはく。ユックリと腹に負担をかけずに起き上がれば、痛さは我慢できる範囲。前回と痛さは雲泥の差があった。
最初のトイレだけ看護師がアシストするとの事で、ふらついたが自分の足でトイレに行く、排尿時尿道が痛かった。
その後は自分一人で歩いてトイレに行く。
夕食は手術日当日なのに普通食だった。
【入院 3日目 手術 2日目 5/10(金)】
排便時にキバると術跡が痛いと思い、昨日夕食後に持参してきたマグミット錠を飲んだせいか排便はスムーズに出来た、キバってもそれほど痛くはなかった。
主治医から早い人は退院する人もいるといわれて驚く。確かに歩くことはできるが
【入院 4日目 手術 3日目 5/11(土)】
主治医から退院どうしますかと問われたが、不安なので入院のままいますというと、それでは月曜日まで様子を見ましょうとの事。明日は日曜日で主治医が休みなのだろうか
【入院 5日目 手術 4日目 5/12(日)】
主治医の診断があったが、退院の話はなかった。明日退院できるので特にこだわらなかったが
【入院 6日目 手術 5日目 5/13(月)】
退院
【その後】
【入院 前日 12/4(月)】
午前中はいつも通り散歩。3時間以上(15㎞)のウォーキングだったが何ら問題なかった。
うどん+炊込みご飯(小)の昼食後、腹が張り始める。過去 5回の腸閉塞時はすべて朝食後だったので一時的な事かと思うが症状は過去 5回と同じ。ただ症状は幾分マシな感じだった。
3時のおやつはいつも通り食べたが、症状が治まらないので夕食は抜いて、ひたすら収束するのを期待する。
朝まで我慢していたが、症状が収まる気配はなく悪化するばかり。
【入院 当日 12/5(火)】
入院の準備をして、手術した病院に向かう。平日なので一般診療で。
CT検査の結果、胃がパンパンに膨れていた。で、即入院。
前回はいきなり内視鏡からイレウス管の挿入を試みたが、今回は胃の内容物を排出するため管を鼻から入れた。
が、前回同様に管が喉を通過する時に大量に吐き戻した。700ccあったとの事。結果、楽になりその後は管から吸い上がるのは僅かのみ。胃に入れた管は自然に十二指腸から小腸に流れ込んで、前回イレウス管を挿入した近くまで到達しているとの事だった。
【入院 4日目 12/8(金)】
造影剤を入れ、レントゲン透視の確認後に管を抜く。水分補給開始
【入院 7日目 12/11(月)】
CT検査。手術跡の腸壁に穴があり、ヘルニアとなっている。
【入院 9日目・手術日 12/13(水)】
手術。前日家族とともに手術説明を受ける。
午前中浣腸して午後手術 約 3時間15:00~18:00
「終わりましたヨ」の声で意識が戻るも、何があったのか理解するまでタイムラグがあった。
手術前の説明では、ヘルニアの原因となっている腹壁瘢痕をメッシュで塞ぐ予定だったが、開腹すると他の部位の腸に癒着して狭窄している箇所があったので数cmほどその部位の腸を切り取る。ヘルニアの瘢痕は腸を切断したため菌が漏れるのでメッシュを入れると感染症の危険があるため縫合となった。
【入院 10日目・手術 2日目 12/14(木)】
尿道に入れている管が気持ち悪く、早く抜いてもらいたいため背中から入れてる痛み止めの量を減らした。
すると痛み止めの量が減った事により手術跡の痛みがひどく辛いこと。→ 翌日通常の量に戻す。従って尿の管は抜けず。結果 18日まで 5日間管を入れたままだった
【入院 13日目・手術 5日目 12/17(日)】
背中の痛み止めを抜く。本来は 3日もつものだが、一時量を減らしたこともあるのか 4日もった。
抜いて暫くすると、痛みがキツクなったので点滴の痛み止めと、鎮痛薬(セレコキシブ)を併用する。
【入院 14日目・手術 6日目 12/18(月)】
術後に初ガスが出た。尿管を抜く。
【入院 15日目・手術 7日目 12/19(火)】
昼から流動食(重湯)開始
便が出始める
【入院 16日目・手術 8日目 12/20(水)】
点滴を左右の腕に何回か入れなおしたが、両腕とも腫れたり・漏れたりしたので 24h点滴を止める。
点滴できないので、食事から栄養を取るため、夕食よりいきなり五分がゆにする。
流動食では問題なかったが、五分がゆを食べると腹が張る。
【入院 17日目・手術 9日目 12/21(木)】
朝食は腹が張っているので、主食の粥を半分以上残す。
CT検査の結果、再び絶飲食となる
腕から点滴できないので、足の鼠径部からの点滴(中心静脈カテーテル)となる。レントゲンでカテーテルの確認
【入院 19日目・手術11日目 12/23(土)】
高カロリー点滴開始
水分補給開始
【入院 21日目・手術13日目 12/25(月)】
前日、造影剤を経口摂取した結果、問題なく流れていたので、流動食(重湯)の再開
【入院 22日目・手術14日目 12/26(火)】
三分粥の開始
【入院 23日目・手術15日目 12/27(水)】
五分粥開始
【入院 25日目・手術17日目 12/29(金)】
全粥開始
【入院 26日目・手術18日目 12/30(土)】
退院
3年ぶりに再発した腸閉塞(5回目)から退院して 13日目(なか12日)に再入院となった。
今回は手術となったので入院は 26日、正月は自宅で迎える事が出来た。
絶食は 12/4夕食~12/19朝食まで
15日間、一旦食事を始めかけたものの芳しくなく再絶食となり 12/21昼食~12/25朝食までの 4日間、計 19日間絶食だった。体重は 5~6㎏減っていた。
【入院 当日 11/15(水)】
過去 4回と同じパターン。
朝食後に腹に膨張感が出たが今までよりはマシに感じられたので、運動すれば元に戻るかと思いいつも通り 2時間の散歩。
散歩途中で周期的に差し込みがあったが、それほどキツクはなかった。
散歩後、症状は増してきた感じだがしたので昼食は抜いて、収束するのを期待して我慢する。
しかし、次第に痛みが増して来て周期的な差し込みが我慢し辛くなってきたので、自然収束は諦める。
4時に手術した病院に電話すると何とか診てくれるとの事だったので、入院の用意をして娘の車で病院へ。山の神は夜の運転は怖いとの事なので。
症状が同じなので腸閉塞を確信していたが CT検査の結果、やはり腸閉塞。
病院側の準備が終わった時点で、胃カメラによるイレウス管の挿入へ。
当初女医さんが担当したが、胃に朝食べた内容物が消化されずに残っていたため胃から先に進めず、試行錯誤を
30分くらいするもそれ以上進まず。担当医に変わり、今度は胃カメラからではなくワイヤの入ったイレウス管をレントゲンを見ながら再開。
十二指腸を突破するも、その先全く進まず。造影剤で腸の先を確認しながら進めようとするもその方向に向かわず。何度も何度も試行錯誤を繰り返す。その間何度もゲロが出た。
管を動かすため鼻と喉がすれるので痛いの何の。1時間以上もそんな状態だったので我慢できなくなった。
医者も諦めイレウス管はそこまでとなった。
ゲロしたため腹の膨張感はマシになり、定期的な差し込みもなくなった。
絶飲食と 24h点滴の実施
【入院 2日目 11/16(木)】
朝 便が出るも造影剤の水便、ガス少々
夕 イレウス管を外す。イレウス管から内容物はほとんど出なかった。
思うに結果からイレウス管は不要だった感じ。ゲロで詰まっていたものが全部出たのだろうか
夕 再び造影剤の水便
【入院 3日目 11/17(金)】
レントゲン 下腹部にガスがあるとの事
朝 便が少し
【入院 4日目 11/18(土)】
レントゲン
24h点滴で 3日経ったので、点滴の針を右手から左手に変更。しかし、翌日に液漏れで腕がパンパンに腫れてしまったので再び右手に変更。
朝 軟便スプーン 1杯
シャワー
夕 3分粥開始(レントゲンの結果)
【入院 5日目 11/19(日)】
変化なし
【入院 6日目 11/20(月)】
朝 5分粥開始
シャワー
通常便
CT検査で通常に戻っていた
【入院 7日目 11/21(火)】
昼 全粥開始
昼食後に問題なければ退院しても良いとの事だったが、少し不安があったので翌日の退院にしてもらう
朝 ガスのみで便は出ず。昼 便出るも固く出すのに苦労
【入院 8日目 11/22(水)】
朝食後 退院
朝 ガスのみで便は出ず
今回は 7泊8日の入院。今までで一番長い入院となった
1回目 5泊6日 イレウス間挿入(胃まで)
2回目 5泊6日
3回目 6泊7日 イレウス間挿入
4回目 6泊7日
伊吹山に向かう途中、信楽の手前で鹿と衝突した。衝突の経緯は山歩きの記録「伊吹山 2022-10-29」参照。
衝突部分はバンパーの左部分で、見た目には傷も凹みも見当たらなかったが、歩行者用エアバックの警告灯が点きっぱなしになってしまった。
リセットすれば治るくらいに思っていたが、半年点検時にディーラーに診てもらうと、部品取替えが必要で 4万円以上の見積もりが出た。
チョット当たっただけの事なので、修理しても再度同様の事態が起きるかもしれないので放って置いたら、12カ月点検時に車検が通らないと言われた。以前にネットで確認した時にエアバックの警告灯は車検は通らないが歩行者用は問題ないとの書き込みを見て安心していたが、再度ネットで確認するとディーラーのいう通りで、点灯したままでは車検は通らない。いい加減なネットの書き込みを信用してしまっていた
しかし、衝突痕も見た目には分からず、少し当たった程度で点灯は問題があるようで、無料修理としてくれた
2回目・3回目の接種後に副反応が出たので、今回もある程度は覚悟はしていたが、その覚悟以上に最強だった。
2回目より3回目のほうが軽かったので、4回目は体が慣れて大したことないだろうと高を括っていたのだが・・。
接種当日は、前回と同じで何事もなく就寝したが、夜中に体が怠く何度も目が覚める。2回目の時に明け方に寒気を感じたのみでよく眠れたが、こんな経験は初めて。
頭が痛く、注射した方だけでなく反対側の肩や他の関節も痛く、頭もかなり痛い。体温を測ると 36.9度。当方は普段の体温は 35度半ばなので、1度ほど高いだけだが普段熱が出る事はないので可なりシンドイ。
血圧も 160㎎越え。最近血圧は高くなってきたが、160越えはめったにない事。
山の神が買い置きしてある、解熱鎮痛剤の「カロナール 500㎎」を服用する。頭・関節の痛みはかなりマシになった。しかし倦怠感はMAXのまま。
如何ともしようがないので、前回同様夜になって収束ずるのをひたすた待つのみ。
思い起こせば、最初に症状が出たのは、今年 5月25日に山上ヶ岳にグループで登山した際。その下山中に左足に違和感を覚えた。
翌日お尻に痛みが出たが、メチャ痛いと云うほどでもなく、筋肉痛が出たのかと思い時間が経てば治るだろうと普段通り散歩も欠かさずしていたら数日で収束した。
その後、若干違和感は残っていたものの、痛いと感じる事はなかったが 6月13日に金剛山に行き少し頑張って歩いた翌日、前回と同じ症状が出た。
2回目なので少し変とは思ったが、前回と同じく数日で収束するだろうと思っていた。
しかし、今回は日毎に症状は悪化して我慢できなくなってきた。で、6/17整形外科に行く。
2022-06-17(金)
整形外科での診断は神経痛。
レントゲンを正面と横から計 4枚撮る。腰椎に異常は見られないがレントゲンに写らない椎間板の状態は不明であるが、症状をみて神経痛との診断を受けた。
神経痛の薬と湿布薬を処方される。湿布薬は効果は見られなかったが、飲み薬は初めてなので一番軽い薬だったが、効果があった模様で、MAXの痛みから80%程度までの痛みに緩和され楽になった。少し和らいだ程度であるが、それでもマシ。
2022-06-24(金)
整形外科に行く。前回もらった薬で副作用もなかったので、量を増やす。25㎎×2 → 75㎎×1
服用後、翌日は改善された感じだったが翌々日は元の木阿弥。3日後に少し改善
2022-07-01(金)
整形外科に行く。症状は特に変わらず。
2022-07-04(月)
左足の脛の横側に痛みが出て、その痛みに耐えられず、整形外科に行く。
痛み止めの薬をもらい、神経痛の薬の量を増やす。75㎎×3(朝 1錠・夜 2錠)
2日前、もともと便通は良すぎるくらいであったのに運動不足のためか便秘気味になっていたため、トイレでキバったら左足太ももが猛烈に痛かった。
時間が経てば落ち着くだろうと思ったら全く改善せず。トイレに行く度、少し気張るだけでも痛みが走るので辛い事。と言うわけで、整形外科に行き痛み止めの薬をもらう。
その後、少しマシになったがジワジワと痛みが続き辛い。
2022-07-11(月)
整形外科に行く。薬の量を増やし75㎎×4(朝 2錠・夜2錠)、引き続き痛み止めの薬ももらう。
診断確定のためMRIを撮る。椎間板が神経を圧迫しているとの事。
その後も、ガマンし辛い痛みが時々襲ったが、数日すると痛みが襲ってくるのはなくなったので痛み止めの薬を飲むのをやめる。
2022-08-上旬
症状が劇的に改善してきたので、リハビリで山歩き再開
2022-12-02(金)
9月初旬より薬の量を減らし始め、問題なく推移していたので、薬を漢方に変更
その途端に症状が悪化し始めた。背中がジーンとして、激しい痛みではないが鈍痛のようなのが、四六時中続く。
薬が合わないのが体もだるい。
2022-12-中旬
漢方薬に変更直後は、症状が悪化した感じだったが、その後落ち着き、違和感はあるものの痛みはほぼ感じられなくなった
2023-03-06
症状の改善が維持されているので、治療を終える。卒業だ。
2023-06 発症後 1年
治療終了後より、その後症状は変わらないが、違和感はズ~ッと残っている
ここにきて、神経に沿った痛みはないが、ふくらはぎ・ももの筋肉が時々痛む事が出てきた
MNPで携帯を乗り換えた。
楽天モバイル(Rakuten UN-LIMIT VI) → OCNモバイルONE
主な乗り換え理由は、
①今年(2022年) 7月より 「1GBまで無料」が廃止され、「3GBまで¥1,078」に統合される。
②自宅の一部分を除いて、電波が入らず圏外になっている。近くのクリニックの待合室も圏外。
自宅に電波が届かないのは決定的であるが、楽天モバイルの無料電話「楽天リンク」は WI-FI と接続していれば、受発信できるのでそんな状態でもガマンして使用していた。ただし、受信は問題ないが、発信は相手側には非通知となってしまう。
スマホでネット視聴はほとんどせず、昨年 1年間で最大使用月は 0.4G以下しかなかった。そんなんで改悪後の最低料金「3GBまで¥1,078」では、電波状態の悪い楽天モバイルを使用し続ける気にはならなかった。
一気に 3Gまで統合せず、容量は少なくてもよいがせめて半額程度であればそのまま使用し続ける考慮の余地はあったのだか・・。三木谷さんは使用量の少ない年寄りは相手にしていないのかな。
楽天モバイルには、楽天がMVNOに参入した直後の 2014年11月から使用している。
その後、楽天は自社回線に参入したが、すったもんだあってようやく自社回線を商用開始出来たのは 2020年4月。
そんな状態だったのですぐにプラン変更せず、そのまま、MVNOのドコモ回線を使用していた。
1年後の 2021年4月に 1年間無料のキャンペーンが終わるのを機会に楽天の自社回線にプラン変更した。
SIMが届いて、開通しようとしたら開通できず。原因は電波が届いていなかった事だった。その間の経緯は こちら 。
で、電波改善が実行されるのを期待して 1年間使い続けていたら突然の値上げ宣言。乗り換えしかない。
次ももちろん格安SIM。値段もさることながら 「契約・開通などの手順が分かりやすい・当方に何かがあった場合誰でも解約する事が出来る」 も重要要件。電話問い合わせできる業者がベター。
検討の結果。OCNモバイルONEに。
ドコモのサブブランドではないが、ドコモの関連企業である。OCNはドコモショップでも契約できる。
契約に当たってドコモショップに出向こうと思ったが、ホームページを見て何とかなりそう。
時間はかかったが、何とかクリア出来(2022/5/19) 3日後にSIMが到着。
端末は。楽天の自社回線にプラン変更した時に同時契約の割引で購入した楽天向けの機種。OCNの動作確認済み端末一覧には載っていない機種だ。
楽天側からのMNP転出は簡単に手続き出来(楽天は各種手続きについて丁寧に解説されている)、OCNへの転入に分かりにくい点があり少し手こずったが、これも何とかクリアして、無事開通。
端末もOCNで使用できるか心配だったが手動でAPNを設定して、自宅の固定電話で通信を確認してネット閲覧も 4G+の表示が出て閲覧する事が出来た。
OCNを使用してみて、
ドコモ回線なので通信には全く問題ないが、使用していて電池消費が以前に比べて 2~3倍は早い事に気付いた。
気になり、ネットで調べてみると、原因はOCNは「グローバルIPアドレス」を採用している事らしい。他の格安SIM業者はほとんど「プライベートIPアドレス」で前の楽天も「プライベートIPアドレス」。グローバル・プライベートの意味・違いは何の事やらサッパリ分からないが。
それが何と、先日の 6月6日から、OCNは「プライベートIPアドレス」でも接続できるようになっていた。使用者に何のアナウンスもなかった。
早速 APNを変更すると、電池消費は以前と同じくらいになった。
ネットの記事には、OCNがスピードが速いのは「グローバルIPアドレス」を採用しているためであり、「プライベートIPアドレス」にするとスピードが落ちる との書き込みも見られたが、ネットは余り見ないので気になるような事ではない。
12月6日(日) 比良山地の烏谷山へ、オシロ谷の鉄塔巡視路から周回に向かった時に捻挫のアクシデント
【当日 12/6(日)】
オトワ池分岐から夫婦滝方面に向かって、ニシヤ谷を下る途中にアクシデントが起こった。
緩やかな浅い谷で、暫く下った所でガレ谷になり谷中に石が出始めた。危険などのない どうというところのない谷であった。
着地しやすそうな石に全体重を左足にかけて、体重移動をして着地した。が、着地したその石が浮石だったため着地と同時に石が傾き、左足が左側に折れ曲がって石の側面下に持っていかれ転倒。
激痛が走り、暫く動けず。
その後の下山までの、詳細な出来事は、当日の山歩きの記録参照
自宅に帰りつき、マンションの地下駐車場から荷物をもって階段で上がるのに一苦労。
靴下をぬぎ、足首を見ると特に腫れてはなかったが、シップをする。
ジッとしている分には特に痛みは感じないので、1日寝て終息して行くのを期待する。
【2日目(翌日) 12/7(月)】
朝起きると、足の甲に腫れが広がっていた。
確実に普通の状態ではないので整形外科に行く。
レントゲンを 3方向から撮るが骨折は見当たらないとの事。診断は捻挫。
処置としては足を完全に固めなくても、補助具で固定したら良い との事。足首を養生する補助具を購入。
シップも処方される。
3週間安静で、治るまで 3ヶ月かかるとの事。これは重症だ
【3日目 12/8(火)】
足の甲と足首の腫れが、大きくなっていた。
ジッとしている分には何ともないが、歩くには大支障あり。まともには歩けない。
【4日目 12/9(水)】
整形外科に行く
前日と症状は変わらす、腫れも相変わらずで、赤ちゃんの足のように膨れ上がっている。
整形外科に行くと腫れを見て、座った姿勢は良くなく、座る場合は机の上に足を投げ出した方がよく、寝る場合も足の下に何かを置いて高くして寝たほうが良いとの事。
風呂で温まるのは問題ないとの事
【5日目 12/10(木)】
パンパンの腫れは、ほんの少しマシになった模様。医者の指示に従い足を上げたのが良かったのだろうか。
【9日目 12/14(月)】
整形外科に行く
足の甲の腫れは徐々に引いてきているが、まだまだ腫れはおさまらない
【15日目 12/21(月)】
整形外科に行くと、腫れは収まってきているので歩いてもよいとのこと
【~1ヵ月目 1/5(火)】
事故後、半月(15日)経って、カックンカックンとではあるが、歩けるようになったので、いつもの散歩コースの一番短いコース(6.4㎞)から歩き始めた。やはりまともには歩けず、後半は痛みが出てきた。2日ほど頑張ったが、無理するのをやめてその後は歩く距離を駅までの周回コース 4.2㎞に縮めた
その後症状は進展も悪化もせず。
3週間も過ぎた正月、よくなるどころか悪化した。再び足の甲が腫れてきた。
正月明けの(1/5)整形外科に行くと、腫れている時は、座っている場合は足を上げるに限るとのこと。そう言えば、腫れがおさまってきたので、座っていても上げることはしていなかった。
【~2ヵ月目 2/2(火)】
6週間目(1/19)で、医者より状態が良くなってきたのでドンドンと歩いたほうが良いとの事
歩く距離も徐々に伸ばす
足の甲に腫れは若干あるものの痛み等は全くない。
8週目(2/2) 医者より卒業。山歩きを始めてもよいとのこと
ちょうど2ヶ月になる 2/5に山歩き再開
完治まで 2ヶ月もかかった。
最初の半月ほどは、引きずって歩いていたが、その後次第に回復してきたが、ほぼ普通に戻るのに 2か月も要した。
【入院 当日 10/23(金)】
腸閉塞は今回で 4回目となるが、過去 3回と全く同じパターン
朝、いつもと変わりなく朝食をして、トイレもいつも通り。その後、暫くするとお腹に張りが出る。
嫌な予感がしたが、どうしようもないので暫く様子見をするが、周期的に腹痛が出始める。間違いなく腸閉塞の兆候なので。それ以上は我慢せず、今日は平日なので午前中診察のある 18年前大腸がんの手術をした病院の外来に向かう。
血液検査・CT・レントゲンの検査を受ける。腸閉塞の診断。閉塞している場所を聞くと中間ぐらいの所との事。前回は閉塞地点は胃に近い所と聞いていたので、違う場所か・・これは聞くのを忘れた
過去 3回と比べて、一番症状が軽かったが、医者の判断で胃カメラからイレウス管を入れる事に。
病室に入り絶飲食 24時間点滴の開始。暫くして横になると、周期的に襲ってきた痛みはなくなった。
医者も迷ったが、イレウス管挿入は様子見となった。
【入院 2日目 10/24(土)】
朝、少し便が出る
ハリはあるが、普通にしていれば痛みはない
【入院 3日目 10/25(日)】
朝、ほんの少し便が出る
症状は前日に同
【入院 4日目 10/26(月)】
朝、レントゲンを取り、その結果食事開始、丸 3日間飲まず食わずの絶飲食だった
昼食・晩食とも重湯で量は 1/2。食事開始とともに 24時間点滴から解放される。
ガスは出るが、便は出ない。もっとも、絶飲食でお腹は空っぽ、出るものがない。
【入院 5日目 10/27(火)】
食事は 3分がゆに変わったが、相変わらず量は 1/2
シャワーを浴びる
今日もガスは出るが便は出ない
地下の自販機に飲料を買いに行った帰りに階段で戻ったが、足がフラフラ。昨日までまる 3日以上、トイレへの往復以外歩くことがなかったので、足が弱ったみたいだ。
前回までは、そんな事はなかったが、歳を取ると暫く動かないだけで、筋肉が急に衰える模様だが、まさにその通りだった。
【入院 6日目 10/28(水)】
まる 2日間便が出てなかったので、朝頑張ると、少し出た。昼食後お腹が張って来たのでトイレで頑張ると、少し便が出た。
食事は 5分がゆになり、量も通常分になった
【入院 7日目 10/29(木)】
食事は全粥
朝、レントゲンの結果、退院が決まる。
昼食を取って退院した。
今回は 6泊7日の入院。今までで一番症状が軽かった割に、入院が 1日長かった。医者の判断によって、左右される。
【入院 当日 6/1(土)】
朝、いつも通りに起きて朝食を取り、トイレもいつもと変りなかった。
暫くすると腹が張って来た。嫌な予感がしたが、どうしようもないのでおとなしくしていた。
お腹の張りだけで痛みはなかったので、昼食を抜いて様子を見ていたが、お腹の張が次第に痛みに変わって来た。
前の 2回と全く同じ経過をたどっているが、痛みが引くことを期待する。
しかし、時間とともに逆に痛みが大きくなった。観念して、土曜日であるが手術をした病院に電話を入れる。
診てくれるという事なので、入院の準備をして病院に向かう。
内科の当番医が診てくれる。単純レントゲンでは、腸閉塞の症状は見られなかったので、確認のためCTを取る。
腸閉塞に間違いないとの事。
車で病院に向く途中からムカムカしていたが、診察中に急に吐き気が酷くなりトイレで吐く。トイレが診察室の横にあったのでギリギリ間に合った。
外科に入院して、24時間点滴を開始。
夜、9時過ぎに造影CTを撮ることになった。
寝る前に痛み止めをいれてもらったが、夜中にかなりお腹が痛かった。
【入院 2日目 6/2(日)】
造影CTの結果と、昨夜痛みがキツかったこともあり、諦めてイレウス管を挿入してもらうことにした。
始めて腸閉塞になった時に、胃までのイレウス管を入れたが、挿入するときに鼻がメチャメチャ痛かったのと、その先の喉で管がなかなか通過せず、その際ゲロゲロに吐いた。それがトラウマになっている。
今回は、胃の先まで挿入するとの事。
胃から先に挿入する場合は、鼻から胃カメラを入れて、一旦ワイヤを胃の先まで通して、そのワイヤを通してイレウス管を胃の先まで入れていくとの事。
全身麻酔をしてほしいくらいだと医者に言うと、何を大げさにと失笑された感じ。
心配し過ぎたせいか、思ったよりましで前回よりよっぽど楽だった。挿入した後も前回よりましだ。
イレウス管を入れた事により、1日に水分 300ml飲んでも良いことになった。
ガスが少し出たが、腹は可成り張っている。但し昨夜の痛みはなくなった。
【入院 3日目 6/3(月)】
イレウス管を 20㎝先まで伸ばして 190㎝にする。
ガスは出るものの、かわいらしいガスだ。
【入院 4日目 6/4(火)】
朝、親指程度の細い便が 20㎝ほど出た。 絶食状態が続いているので詰まっていたのが下りてきた模様。
朝の回診時にイレウス管を通じて造影剤を入れ、レントゲンを撮る。
その結果、造影剤は下まで流れているので、閉塞は改善されているとの事。
暫くして、水便が出た。造影剤だ。
検査では閉塞は改善されておるのでイレウス管を外せるようだが、お腹の張りは相変わらずであるので、医者も迷い、午後に再度造影剤を入れて念を入れる。
その結果も、問題なかったので、イレウス管外す。一遍に楽になる。
丁度、看護師をしている娘が見舞がてらに洗髪をしに来ていてくれてたので、イレウス管を外す所に立ち会った。
【入院 5日目 6/5(水)】
朝 3部がゆ開始。まる 4日間絶食だった。
午後、便が少しでた。はやくも朝食の分だ。
昨日の午後、イレウス管を外したので、シャワーをする事が出来た。
【入院 6日目 6/6(木)】
昼食から 5分がゆを通り越して 7分がゆになる。
午後、細い便が握りこぶし程度出る。
明日の朝食後に問題なければ退院出来る事に。
【入院 7日目 6/7(金)】
朝食後、いつも通りに便が出た
昼食後に退院。
今回の入院は 6泊7日となった。過去は 2回とも 5泊6日だったので、1日長い入院だ。
最初の症状は、今までよりも軽かったが、吐いたのは初めてであり、当日夜の痛みは過去にない痛みだった。
閉塞が解消された後でも、お腹の張りが暫く続いた。
【入院 当日 1/2(水)】
毎年、正月の 2日は、恒例の愛宕山(愛宕神社)への初詣登山だ。2010年から始めたので今年で 9年目。
一般交通機関で行くので、前日にザックを入替え、靴も綺麗に泥を落としてて準備万端にしていた。
当日、朝食を取り、いつも通りトイレをすましてから乗る予定の電車の時間まで少しあったので、テレビのニュースを見ていると、お腹にハリが出てきた。
下痢の兆候はないので、動き出せば治るだろうと思って駅に向かって歩きだす。
が、歩いている途中で一向に症状はおさまらず、徐々にお腹のハリが痛みに変わる。
どうするか考えながら駅に向かっていたが、1 年2カ月前に襲った腸閉塞と症状が全く同じだ。で、引返す事を決断。
自宅に戻り、安静にしていたら戻るかと思うも、一向に症状は変わらず。
手術した病院に電話を入れるも、正月のためか呼び出し音のみで応答なし。
近くの救急病院を聞き電話するも、内科担当は麻酔医なので腹痛は診れないと断られる。
前回お世話になった救急病院に電話して事情を話すと診てくれるとの事で、入院の準備をしてその病院に行く。
正月休みで診てくれる救急病院も少ないようで、その病院はてんてこ舞い。検査のたびに待たされる。
診断は予想通りに腸閉塞、即入院に。
今回は前回と違って、痛くなってから絶飲食をしていたので、胃にチューブを入れずにとりあえず様子見をする事になったので助かった。あのチューブを鼻から入れる痛さは今でもトラウマになっている。
処置は、絶飲食の 24時間点滴。
【入院 2日目 1/3(木)】
周期的にに来る痛みはなくなり、ガスも出た。但しお腹にハリがあり押さえると痛い
絶飲食の 24時間点滴が続く。
【入院 3日目 1/4(金)】
昨日と症状はあまり変わらない。
レントゲンの結果、お腹のガスは小さくなっているので、水分を取っても良くなり、夕食から 三分かゆに。
人差し指ほどの便が 1本半ほど出た。
2日と3日は正月の為、若い担当医だったが、今日決まった主治医も学校でたてのような若い先生だった。
【入院 4日目 1/5日(土)】
症状は次第に良くなる。午後に指の太さぐらいの細い便が 15~20㎝ほど出る。ガスはバンバン出始めた。
昼食より 五分かゆ
【入院 5日目 1/6日(日)】
症状はほとんど通常に戻った感じ
土・日は回診も検査も何もなし
【入院 6日目 1/7日(月)】
血液検査・レントゲン検査も改善されていたので、明日退院と言われたが、早く退院したいと言うと昼食後に退院出来るようになった。
前回と全く同じ症状で、朝食後の突然の出来事。前触れもなく突然に症状が出たので対処のしようがない。
今後いつどこでこんなことが起きるか分からず不安だ。
正月 2日の事だったので、病院はてんてこ舞いで待ち時間が多かったが、担当している先生は若い先生ばかりで、当方を診てくれた先生も、学校でたての女医さんだった。損な役回りは若手に集中しているような感にだ。
前回と全く同じ症状だったので腸閉塞と確信していたが、若い女医さんはマニュアルにあるのか感染症も疑い、最近海外に行ったかとか、生ものを食べたかとか と色々聞かれた。
入院してからも、当方の症状が軽かった為か、当方にあてがわれた当初の担当医・主治医とも学校でたてのホヤホヤの先生だった。
なお、1ヶ月ほど前に大腸癌で手術してから毎年受けている総合検診(胸部・腹部の造影CT、胃カメラ、大腸カメラ、血液検査)をしたところだった。
その際、大分以前からあった胃の上部のポリープは寧ろ小さくなっており、最近出来ていた下部のポリープも病理検査で問題はなく、その他は全く問題のない状態であった。
と云う事で、今回は腸閉塞以外は他に心配することはなかった。
【入院 当日 10/29(日) 】
朝食後、暫くして腹痛、胃薬を飲む。
時間とともに、お腹は張ってはいるものの痛みは少しマシになったので、昼食は雑炊にしてもらう。
食後、再び痛くなり我慢し辛くなって来たので、日曜日だが午前中開院している近くの医院に昼前ギリギリ飛び込む。
診断は、以前に開腹手術(大腸癌)をしているので、腸閉塞が疑われるとの事。術後 15年経っているが、開腹手術した場合は、何年たってもその可能性はあるとの事。
腸閉塞は医院では診る事が出来ないので、手術した病院に行ってほしい、電話して事情を話せば、日曜日で診てくれるとの事。
手術した病院に電話を入れると、計画停電で診る事が出来ないと断られ、病院を紹介してくれる案内センターの電話番号を教えられた。しかし、そこに何度電話しても、呼び出し音のみで応答なし。
致し方ないので、娘に病院を当たってもらい、救急センターに駆け込む。
レントゲン・CT検査の結果は、腸閉塞(イレウス)。そのまま入院へ。
その際、鼻から管を入れられるが、喉をなかなか通らず、その度に何度も吐いてしまう。
毎年、胃カメラを飲んでいるが、それよりうんと細い管なのに、辛さは雲泥の差でキツかった。麻酔をかけていないせいかな。
それでも、女医さんに無理やり挿入され、無事貫通。
吐いた事により、腹痛はマシになった。それよりも挿入した管で鼻・喉が痛い。
24時間点滴も同時に開始。以降、絶飲食。そのまま入院へ。
【入院 2日目 10/30(月)】
挿入してる管の、鼻と喉が痛い。喉は「ごっくん」するたびに痛みが走る。逆に痛かったお腹は落ち着く。
ガス(屁)が、朝・昼。夕と少しずつ出た
鼻から入れた管が辛く、1日中ベッドにごろり。何も出来ない、テレビすら見たいとは思わず。
【入院 3日目 10/31(火) 】
朝、ガスが出ている事と、レントゲンの結果で、辛かった鼻の管を取る。イッキに楽になる。
ようやく歯が磨け、入浴も出来てスッキリ。
【入院 4日目 11/1(水)】
指の太さ位の細い便が出る。絶飲食中なので、腸にたまっていた分だ。
【入院 5日目 11/2(木)】
昼食時より、三分がゆの開始(昼・夕)。
24時間点滴から、部分点的に変わる。
鉛筆の太さほどの細い便が、とぎれとぎれで計 20㎝ほど出る。
入浴
【入院 6日目 11/3(金)】
五分がゆ(朝・昼)
午後、退院
2017(H29)年7月 車を買い替える。
今乗っている、「 ウイングロード 1.8エアロ 」 が来年 1月に 11年目の車検を迎えるため、車の買換えを考える。走行距離は 10万㎞を越えている。
故障は全くなく、よく走る車である。メーカーOPのナビも性能が良く、キセノンランプ他フル装備をしており、駐車場が屋内だった事もあり、塗装の状態も良く、ヘッドランプカバーも全く濁ってなくクリアーであった。
しかし、いくら状態が良いとはいえ 10年・10万㎞ を超えているため、下取りに出すと二束三文にしかならないと思われる。従って、このまま乗りつぶした方が断然に徳である。
だが、当方の年齢から行って、買い替え時は今しかない。
自覚意識はないが、年齢からいって反射神経は確実に劣化している筈なので、安全装備・・自動ブレーキに頼りたい。
特に、病院通い・買い物に使っている“山の神”の運転も心配だ。
と云う事で、買い替えを決断。
新しい車は、スバル XV。
決め手は、
①サイズ(駐車場が機械駐車なので大きさ・重量に制限があるため)
②自動ブレーキのアイサイト
四駆なので燃費が気になったが、カタロク数値で 16.4㎞。ウイングロード(二駆)が16.2㎞だったので、問題ない。
フルモデルチェンジが 5月のため、ディーラーに試乗車が到着してから早速試乗させてもらい、自動ブレーキも体験。
価格交渉もスムーズに行ったので、契約。
で、納車
登録は 7月上旬であったが、その後メーカーオプションを装備してから、いざ納車という時に運転席側のピラーの所にへこみがあったらしく、その修理のため納車が遅れる。結局、納車は 7月下旬になってしまった。
新車でケチが付いた感じだが、車内側なので気にしないことにして、引き渡しを受けた。
当分新車で遊べる。
前の車との比較
①収納
XVは物入が少なく、なおかつ小さい。従って小間物が収まらない。収納に関しては落第点。応急タイヤが付いていないのでOPで付けたら貴重な荷室下の物入まで無くなってしまった。
その点、ウイングロードはすぐれていた。各所に小間物入があり、助手席も前に倒すことが出来、テーブルとして使えた。
②車中泊
XVは小型SUVなので致し方ないが、後方の荷室が短く段差もある。後部座席を倒しても、当方の背丈(170㎝)では収まらないので前部座席を前に移動させ、後部座席との空間を板でブリッジして、荷室と後部座席を倒した段差は発泡スチロールを加工しカバーをつけてフラットにした。
ウイングロードはワゴンタイプなので後方の荷台が広く、後部座席を倒しても段差はないので、車中泊はそのまま出来た。
③動力性能
ウイングロードの方が加速(スタート・中間とも)は良かった。XVの方が排気量は大きいので燃費を考慮した作り込みをしているのかな
④走行性能
XVのカーブ対応にはびっくりした。それなりのカーブでもあまり遠心力を感じずに曲がって行く。今までにない経験だった
追記
その後の燃費。
8月3日~5日に白馬岳・乗鞍岳へ遠征に行った時の事。
自宅近くのGSで満タンにして出発。無給油での帰宅途中、自宅まであと 30㎞までという所で、燃料計のランプがすべて消えてしまった。
とは言っても、まだ数㍑はあるだろうと思い、ヒヤヒヤしながら走り、何とか自宅近くのGSに到着。
タンク容量 63㍑に対して、60㍑の給油だった。危うかったな。
満タンにしてから、再給油までの走行距離が 900㎞だったので 燃費は 15.0㎞/㍑(900/60)だった。
往路は普通に走っっていたが、メーターボックスにアベレージ表示が出るので、気になり、帰路は燃費を気にして丁寧に走った。
その結果 AVG=16.5 だったので、カタロク数値が出るのだと思い少しうれしくなったが、実際の燃費は 15.0 だった。
AVGはその後も気を付けて見ているが 10~15% 甘く表示されるようだ。
大分以前より健康診断で、中性脂肪・コレステロールの値が基準値をオーバーしていると指摘されていた。
眼底検査で、動脈硬化の傾向があると指摘も受けていたが、家族に血液がらみの病状があるのは一人もいないので、特に気にしていなかった。
年々その数値は上がってきているので、医者のアドバイスもあり検診を受けるついでに頸部エコーも受けた。
その結果、プラークが。
しかも、相当に大きく広がっていたようで、医者の説明によると、かなり深刻との事。このままでは心筋梗塞・脳梗塞に至る可能性が大と脅し(?)を受ける。
で、コレステロール値を下げる薬を、常用することになってしまった。
薬は余り好きなほうではないが、致し方ないので飲むことに。
ついに、病人の仲間入りか?
今年 65歳を迎え、41年間務めた会社を退職することになった。ついに年金生活に突入だ。
思い起こせば、サラリーマン生活が始まり、社会人となってからいろいろな出来事があったが、その間 41年という長い年月も、なんだかアッという間に過ぎ去って行ったように感じられる。
そんな過ぎた時の流れの中で、個人的に大きな出来事って何だっただろうか?
結婚、大阪への転勤、そして52歳の時に突然に襲った病気・・・癌では危うく命拾いをした事かナ。
残りの人生、特に趣味といったものを持たない当方は余り余った時間をどう過ごしていこうかと、いま思い迷っているところだ。
6月5日に会社の健康診断で簡易ドックを受診。
今回は、要精密検査が2件も引っかかった。
毎回指摘されている、胃の上部の隆起性病変に加えて、今回は右肺野下結節影が見られ要検査となった。大昔の37・8年前に急性肺炎を患ってから肺のレントゲンで指摘を受けたのは今回が初めてだ、しかも要精密検査とは・・・。
会社の健康診断とは別に、術後の転移の有無の確認のため 毎年CT検査 を受けているが、肺に関して何かを言われた事は1度もなかった。
肺機能について、ここ数年は肺活量が標準の75%以下しかなく、そういう意味では問題はあった。
急性肺炎を患い、それを機会にタバコをやめたが、それまで10年ほど喫煙をしており、やめる前は1日2箱のヘビースモーカーだった。いつも山歩きでヒーヒー・ハーハーと喘ぎながら登るのは、その影響だろうか。
なお、健康診断では上記の2件の要精密検査のほか経過観察として、毎回指摘されている脂質代謝・聴力に加えて眼底検査で両眼動脈硬化性眼底も指摘された。それらは年齢とともに来る経年劣化で致し方ないと観念はしているものの、それにしてもガタの来た我が身だ。もうボロボロの体だ、天国への階段数は着実に減っているるようだ。
で、毎年この時期におこなっている検査を手術した病院で実施。昨年カットした大腸カメラの検査も受ける。
検査内容
7/19 CT、腫瘍マーカー
7/23 胃カメラ
8/ 1 大腸カメラ (当日飲む水(下剤)が強烈になったらしく、前日の検査食がなくなり、量も2㍑→1~1・5㍑と少なくなった)
結果
全て異常なし。気になっていた肺の結節影もCTによる精密検査では何もなかった。3年前のCT画像とも見比べていたが変化がないとの事であった。
胃の隆起性病変も変化なし、ピロリ菌によりガン化する可能性が考えられるらしいので、念のためピロリ菌の検査を行ったがピロリ菌は検出されなかった。
てな訳で、天国への階段の段数は着実に少なくなっているものの、あと暫くは山歩きを楽しめそうだ。
昨年(2013年)の夏過ぎより首の後部に2ヶ所シコリがあるのに気が付いた。そのシコリは左側が徐々におおきくなってきた。
痛くもかゆくもないのでホッテおいたが、今年に入るとそのシコリは大きさには変化はないが強く抑えたりすると痛みが出るようになった。
その後、徐々に痛みは増し、今年の3月に入ると少し触るだけでも痛くなり、ネクタイを締めるのがつらくなってきた。そんなこともあり、医者に行くと「粉瘤」と診断され、取りあえずは抗生物質をもらい様子を見る事にした。
(ネットで「粉瘤」を調べると、新陳代謝した皮膚(垢)が皮膚の内側に溜り瘤状になったもの らしい)
抗生物質で散らそうとしたが、1週間経っても痛みは増すばかりなので、近くの医院で切除してもらう(2014-4-12)。
その後、ほぼ毎日通院し切除口にガーゼを入れ膿を出した。
4/30 完治、切除から約19日も要した。
年齢とともに、老朽化が激しくなり、各所に劣化・障害が頻発している。
6月20日に会社の健康診断で半日ドックを受診した。数日後に受診した健保より呼び出しがあり、確認に行くと胃透し(バリウム)検査で胃の上部に隆起性病変にがあるとの事。これは3年前の検査でも指摘され、その後胃カメラを飲んだが、ポリープがあるものの悪性ではないので問題ないとの事であった、念のため切片を取り病理検査をしたが問題なかった。その後も毎年胃カメラを飲んでいるが特に変化なし。
そんなことで、自分的には大して気にはしなかったが、健保の先生から胃通しのフィルムを渡され精密検査をするようにとの指導を受けたこともあり、何時もはお盆前後にしている術後の毎年の検査を少し早めてすることにした
今年の検査は、大腸ファイバーは昨年実施しているので胃カメラとCTのみとした。(大腸は2~3年毎でよいとのこと)
結果(8月5日)
健保で指摘を受けた胃の隆起性病変は、特に変化はなかったので今年は、病理検査のための切片も取らなかった。
その他CTによる検査も特に異常なし。
従ってもうしばらくは生きていられそうだ。これはと言って答えようがないが、まだこの世に未練があるので一安心だ・・・。
名古屋で一人暮らしをしている母親を名大病院に連れていくため、有給休暇を取り早朝より実家に帰った。
助手席に母親、後部座席には当方の山ノ神を乗せ、実家から病院に向かう途中で信号待ちで止まっていたら、ガシャーンと大きな音がして衝撃があった。一瞬何が起きたのか分からず、とにかく大きな音に驚き、空から何かが落ちてきたのかと思った。後方からまともに追突された衝撃であった。
当方は何ともなかったが、助手席の母親はショックで呆然としていいた。
現場は消防署の斜め前での出来事だったので、柿色の服を着た消防隊員が数名来られ、怪我の具合を聞かれ、呆然としている母親を見て、救急車の出動をしましょうかと声をかけてくれる。
母親は事故のショックを受けているが怪我はない模様。怪我よりも予約している病院へ行けなくなるのではないかとそちらの方で頭が一杯になっているようだった。
車は後方のバンパーとドア(ワゴンタイプの為)が中央部でへこんで、悲惨な状況になっていた。エンジン・駆動系には問題がないので走行するのに問題はないが、後部のドアがやられているので、半ドア状態となっており、インテリジェントキーでドアの開閉・ロックが出来なくなっていた。
反面、相手側の車(マーチ)は見た目には前部バンパーに傷がついた程度。
運転していたのは若い母親で、後部のベビーシートの乗せている赤ちゃんがむずかったので、振り向た事による脇見運転。
相手とのやり取りがあるので、母親と山ノ神はタクシーで名大病院に向かった。
相手と電話で保険会社との話を終え、当方も病院へ向かう。
奈良への帰路、ディーラーに立ち寄り修理の話をする。修理には2週間はかかるとの事。
2012-11-21
後部座席に乗っていた山ノ神が、猛烈な腰痛となり、病院で検査を受ける。
保険会社に話すと、警察に人身として届けるように言われる。←事故後警察に立ち会ってもらっているが物損事故での処理となっているため
本来は出向いて事情説明をして届ける必要があるが、遠方なので電話での説明で了承してもらう。
ただし、警察はワザワザ母親の家まで行って事情を聴いたとの事
2012-11-23
ディーラーに車を預け、用意してもらっていたレンタカーを借りる。
当方はディーラーにある、どの代車でも良かったが、山ノ神が運転しにくいから同じ車にしてくれと、我儘を言う。
メジャーな車ではないので、ディーラーがワザワザ大阪から調達してくれた。山ノ神はクレーマーか?
2012-11-27
この日、修理の開始となる。すぐに修理を開始しなかったのは、保険会社による現物確認があったからとの事、軽微な修理であれば、見積書もしくは写真のみですまされるようだが、ワザワザ見に来たのは相当見積もりが高かったのでなかろうか? 保険修理となると、どうしても高くなる?
2012-12-17
修理完了
事故から 27日、ディーラーに預けてから 3週間(24日)もかかった。
修理代ならびに3週間のレンタカー代は相当な金額になったのでは・・。
後日、修理費用の連絡葉書が到着
修理費 390,000
レンタカー 130,000(使用日数 25日)
ちょっとした追突事故で、52万円もかかっている(山ノ神の病院検査費用は除く)、事故は絶対に起こしてはならないと改めて思う。これを教訓として安全運転を心がけよう。
この8月で、術後10年になる。
術後、毎年検査しているが、今年も一連の検査を受ける。
結果、特に異常はないとの事であった。ただし胃の噴門部が老化現象の為か弱っており、食道に逆流しやすいとの事。とは言っても、全くと言っていいほど自覚症状はないのだが・・
7時28分21秒 から 31分43秒 の 3分22秒間 奈良で金環食を見ることができた。
地球全体では時々おきているが、日本で金環食の現象がおきるのは、1987年の沖縄、本州では1883年以来との事。次に日本で見るには2030年に北海道・2041年に若狭から伊豆半島におきるまで待たなければならない。
残念ながら当方が平均寿命まで生きたとしても次の機会に見ることはかなわない。
ということは、見ることができるのは実質に今回が最後の機会だ。これは是非とも見なければ・・。
とは云っても日食グラスもなにも用意をしていないョー・・・。
金環食が発生する時間帯はちょうど自宅から駅までの通勤時間に当たるので、いつもより5分程度早めに出る。
7時15分過ぎに自宅を出ると、外は曇り空であった。太陽の方向を見ると太陽は雲に隠れていたが、その雲がちょうど日食グラスの役割を果たしており、太陽が欠けてるのが良く見えた。日食を見た記憶があるのは今から50年ほど前の小学生のころに、セルロイドの下敷きをかざして見たような記憶があるのみだ。
金環食になる時間帯に、いつもの通勤通路を少し外れ公園に寄る。
昨日の日曜日に購入したばかりのコンデジで日食を撮影する。薄雲に隠れている時は絞りが合うが、雲の合間から太陽が出てくると、シャッター速度を最大にし、絞りを最大に絞っても露出過大になっていた。直接太陽を撮るにはそれなりのフィルターが必要だ。
ちょうど写真を撮り始めたころ、通勤時によく会う人が、当方と同じように、この公園に寄り道をしてきた、考えていることは同じようだ。
で、その時撮った写真
自宅を出ると欠け始めていた。
もうすぐ、金環食。 周りの輪っかが繋がった →金環食だ!
(金環食は 7時28分21秒 ~ 31分43秒)
持病が勃発したため、しばらくの間会社との往復以外はほどんど動いていない。
良くなりかけたかと思うと再び悪くなったりとの連続だ。このような病状は過去にない、初めてのことだ。
一昨日も大分良くなったので、回復に向かうかと思ったが、一転して昨日は大分調子が悪かった(詳細は本文の下記)。そんな中ではあるが、運動不足解消と体調状況確認のため、奈良市内まで約1時間15分早足で歩いて確定申告に行ってきた。
有給休暇を取って確定申告に行って来た。当たり前のことであるが高額所得のための確定申告ではない。
善良なる小庶民の、生活防衛の為だ。
昨年(2011年)初めて、自分で申告書を作成し、確定申告をした。今までも医療費控除等で、確定申告をしていたが、全て当家の山ノ神に任せていた。
定年後、ほんのわずかであるが、企業年金があり、その分に対しどういうわけか源泉徴収されている、それを取り戻すために,国税庁のホームページより申告書を作成し、奈良税務署に持参した。
今年も、昨年同様に、申告に行ってきたが、相変わらず人の多いこと、すごい行列だ。ただ当方は、ホームページで申告書を作成済みなので、提出するだけの窓口はほどんど待ち時間なく、すんなりと提出することが出来た。
それにしても、わずかな企業年金で税金がかからないことは明白なのに、決まりとはいえ杓子定規に源泉するのは如何なものか?
企業年金とは別に、厚生年金基金からも子供の小遣い程度の給付があるが、その分については源泉されていない。民と公の違いがあるかもしれないが、それにしてもチグハグなシステムだ。
体調異変の事(持病)
金曜日(2/17)の朝までは全く異常はなかったが、その日会社について暫くしてから、持病がでた。
最近は、兆候があると対処していたので、大事には至らなかったが、今回はその前兆がなく一挙に悪化したようだ。
そのため、翌日の週末は家でおとなしくしていた。
週が明け暫くしたら大分良くなってきて、この分なら次の週末には、山歩きに出かけることが出来るか と思っていたら、再び悪化したようでなかなか回復しない。そんな状態がかれこれ3週間も続いている。
ここまで状態が悪くなったのは、数年ぶりだ。
おまけに巻き爪の追い討ちも来ている。痛いのをガマンして、無理やり巻いている部分の爪を掘り起こし、その部分をカットした。涙が出てくる。
(式)前日
今年6月に入籍し、既に同居しているが、式の前日に当家に帰ってきて泊まる。(と言ってもすぐ近くにアパートを借りて住んでいる)
式場の手配から、結婚式・披露宴の進行まで全て本人同士で行ったので、当日の段取りを確認。
当方は言われるままにすればよい操り人形でよいみたいだ。
結婚式はそんなに数多く出席した経験はないが、自分が経験した結婚式とは大分様相が変わってきていうようだ。
式前日に泊まりに来たのに、ドラマでよく見る 『お父さん・お母さん 長い間お世話になりました・・・うんぬん』 の挨拶はなかった。
まァー こちらも体裁が悪いし、遠くに嫁に出すわけでもないのし・・ 。
(式)当日
式は親戚だけでなく友人も立ち会う「人前式」(じんぜんしき)というもので、神式でもキリスト教式でもなく宗教色を省いた形式だ。
ただホテルに設置されているチャペルで式を挙げたのでキリスト教式に近いものがあった。ただ神父・牧師さんの立会いはなく、本人の誓いの言葉と指輪交換のみだ。
式に当たって生まれて初めてモーニングを着る(←もちろん貸衣装)、体裁悪い思いをして娘と共にバージンロードを歩く。
(あとでビデオを見ると非常にギコチナイ歩き方をしていた。)
披露宴は仲人は立てずに雛壇には本人ら2人のみ、司会はホテルのプロに依頼、さすがプロで時間通りキッチリ進行し万時遺漏なし。
素人の司会はそれなりに味があるものだが今日日は司会を引き受けるような人は中々いないようだ。
挨拶は両家の主賓と乾杯、友人1人のみとしシンプルに収めて、後はDVDと余興で盛り上げていた。昔は挨拶が多くダラダラとつまらない?挨拶を聞かされた(と言っても殆ど聞いていないが・・)モノだったが、新しい演出が増え省かれるようになったようだ。
なおDVDはホテル側が作成した本人らの紹介と、新郎・新婦の友人それぞれが自作した2本とで合計3本披露された。
中々面白いビデオで、それぞれにアイデアマン/ウーマンがいるようだ。2本ともDVDを見せるだけではなく、DVDと同時進行で余興も取り入れ一層盛り上げ面白くしていた。
DVDには親から見ると子供たちの知らない一面や日頃の行動が紹介され、見入ってしまった。感心・感動した。
友達を巻き込んで自分達の作・演出を多く取り入れた披露宴であった。
そんなこともあって披露宴の時間 2時間半は非常に短く感じられた。・・・新しく購入したデジイチ・カメラ(オリンパスペン)で写真を撮りまくり、出てきた食事は献立表の内容を確認しながら全て完食した。
お涙ちょうだいの最後の親への手紙では、やはりウルウルと来てしまい涙が出そうになったがガマン。となりの山ノ神はキッチリ演出にハマッて号泣。
結婚式に当たっては
嫁に出すとか、感傷的な事は殆どなかった。すぐ近くに住んでいる為だろうか?
結婚式考
式を挙げるか挙げないか、挙げるとしたら どこの土地・式場・規模にするか 等々いろいろな考え方がある。
今ハヤリの、海外で本人もしくは近しい親戚のみで式を挙げ、あとで友人を招いたパーティーをする方法もある。これであれば披露宴をするよりは格段と費用が抑えられる。
どのようにするかは本人任せだった。当家(山ノ神家を含め)の親戚や関係者にどうしても結婚式をして披露宴に招待する必要性はなかったからである。
本人たちが選んだのは普通に結婚式を挙げ披露宴することであった。当人達が選んだといっても、どうも当方の娘の希望が強かったみたいだ。
たぶん友達の結婚式に何回か出て憧れていたのではないだろうか。もしそうであれば引っ張りまわされる相手方はえらい迷惑ではあるが。
結婚式・披露宴の決定権は男性側にはナイと言われるが、まさにその通りのようだ。
今年3月に東日本大震災というとんでもない巨大地震が発生した。
幸いと言うか、当方はこれまで、そのような大地震に遭遇したことはない。ただ同じ自然災害で、小学生の時に巨大台風にみまわれた経験がある。地震と台風、災害の種類は異なり、また被害を及ぼした範囲・被害の度合いは、今回の地震に対し比べくもないが、巨大な自然災害という厄介な出来事に遭遇した事には変わりない。
今回の地震で、遠い昔の出来事を改めて思い出したので、その時の記憶を振り返り、わが身に振りかぶった自然災害というものを、これを機に頭の中から取り出し、文章としてまとめてみたい。記憶違いも多くあるとは思うが。
1959年(昭和34年)9月26日に名古屋に襲来した伊勢湾台風のことである。
もちろん今回の大震災と比べく事ではないが、伊勢湾台風が名古屋に襲来した時には、ちょうど満潮と重なり高潮が当時の貧弱な防潮堤では防ぎきれず一気に海水が流れ込み、名古屋市南部を水没させた。短時間での浸水・水没のため多くの人が逃げ遅れ、死者・行方不明者は数千人(5098人)にものぼった。当方にとっては忘れ難い悪夢の思い出である
この記録を書いている ( 2011年8月 ) 今から半世紀以上前の、小さな時の出来事なので、殆どが忘却の彼方であるが、部分部分において強烈に印象に残っている場面もあるので、それらの場面を思い出しながら記録してみたい。
当方はそのとき小学3年(9歳)だった。当時は名古屋市の南部(港区)に住んでいた、今も実家がある。現在は住宅地となっておりマンション等も多くあるが、そのころは空地も多く、近くには赤レンガの高射砲陣地の跡もあり、戦争の傷跡もまだ残っていた。家は木造の粗末なのが多かった。
当方の家も例外でなく粗末な家で、当時は小さな飲食店をしており1階は店舗、2階が住居であった。1階には購入して間もない白黒のテレビと冷蔵庫(※1)があった (※1) 冷蔵庫といっても今みたいな電気冷蔵庫などではなく、上下2段となっており上の段には毎日氷屋さんから配達される1貫目くらいの氷を入れて冷やす代物であった。当時は普通の家庭には冷蔵庫はなく、飲食店を経営していたため、そのような冷蔵庫(のようなもの)があった。時間の経過は殆ど覚えていないが、暗くなってからの出来事と記憶している。
大型台風が来るとは承知していたようだが、特にこれといった対策はしていなかった。
台風が襲来してから、もちろん暴風が吹き荒れたであろうが、暴風雨に対する記憶は全くない。暴風雨の記憶がないのは余りにも水害に対する印象が大きかったからであろう。
その水害の記憶は、家の中に水が浸水してきてから見る見る間にその高さを増して床上をはるかに越え、最終的に1メートルくらいの高さまで水に浸かった事である。家の中に浸水し始めてから、アッという間だったと記憶している。
浸水などは全く想定していなくて、また余りにも短時間に浸水した為、避難や重要品の退避などをする余裕など全くなく、1階にあったものは殆ど水没した。ただ当時貴重品であったテレビだけは何とか上の方に上げ水没から逃れた。
1階にあったトイレは汲み取り式で、当時は住んでいた地域には汚水排水の下水管は整備されてなく、市の環境局が定期的にバキュームカーで汲み取りに来ているような代物であった。当然そのトイレも水没し汚物は浮遊した。といってもあらゆるものが流れたいた為、汚物の浮遊を見たわけではないが。
そんな訳で、家の中に浸水して来た海水はあらゆるものを飲み込み汚染されていた。浸水している間、家の中の階段途中より水面に向かって放尿をした不謹慎な記憶もある。
当家の家族は避難することを想定していなかったため、海水が浸入してきてからあわてて2階に避難した。暫くして窓から外を見ると、道路に停めてあるトラックの荷台に何人かが避難しているのが見えた。夜の出来事で、まだ停電していなかったのか、何らかの明かりがあったのか、ハッキリとその光景を覚えている。どうも向かいの家は平屋のため道路に停めてあったトラックの荷台に逃げ込んだようだ。水はドンドン上がってくるし、最終的に1メートルくらいでその上昇は止まったが、荷台にいた人は水位が上がるにつれ恐怖の坩堝と化していたのではなかろうか。
どれ位の時間水に浸かっていたのか覚えていないが、当方の地域は水が引き始めると瞬く間に引いてしまった。
翌日は台風一過で天気が良かったような記憶がある。家は浸水した高さまでくっきりと跡が残っていた。津波のように横から圧力のある浸水ではなく、下から上がってくる浸水であったので家が流されるようのことはなかったが、泥まみれになっていた。
家の横の道路には貯木場から流れてきた木材があり、家畜の死体もあったような記憶もある。
家の後片付けでは、電気はもちろん停電していたが、水道は問題なかったのか直ぐに復旧したのか覚えていないが早速に水道で泥を洗い流した記憶がある。ガスについては覚えていない。
当日だったか翌日だったか覚えていないが、近くのお寺さんに行くと本堂に、何体もの死体が並べてあった。泥だらけの死体であった。
当方の親戚・知人には亡くなった人はいなかったが、すぐ近くでもこれだけ多くの人が犠牲になっていた。
子供心に興味本位で見に行ったと思うが、強烈な印象として今でもハッキリ記憶として残っている光景だ。
何日か後に、まだ停電は続いていたが蝋燭の明かりで商売(飲食店)を再開したような記憶がある。
当方が通っていた小学校は海抜マイナス地帯にあったのか、台風後も水が引かなくて暫く水に浸かっていた。浮かんでいた畳を船代わりに遊んだ記憶もある、今から考えれば汚染された水で危険この上なかったと思う。そんな状態なので学校は当分休みとなった。夏休みが2回来た感じで不謹慎にも嬉しかったように覚えている。学校再開まで時間がかかる為(1ヶ月くらいだった?)、高学年は他の学校に臨時に編入したように思う。
学校再開後、全校で1人犠牲になったのを聞いたと記憶している。
給食はそれまで進駐軍払い下げの脱脂粉乳だったのが、正真正銘の牛乳瓶入りの牛乳に代わった。
学校にはアメリカからの救援物資として、文具が箱に詰められ送られてきていた、当時日本はまだまだ貧しく文具なんてロクなものはなかったが、その送られてきた文具(シャープペンシルなど)がすばらしくて眩しかった事が印象に深い。アメリカの豊かに驚いたものだ。
残念ながら全員に行き渡るだけの数がなかったので抽選になり当方はもらえなかったが・・
現在でも、発展途上国において災害などが発生した場合に、先進国より送る援助物資は、受取る発展途上国の人々にとっては、そのように見えているのかも・・。
以上が、伊勢湾台風について記憶にある全てであるが、復旧して平常に戻ってからの台風に関しての記憶はない。その後に第2室戸台風が名古屋に来そうになったとき、避難した場所は覚えていないが避難したことだけはしっかり記憶にある。
終戦後14年の出来事であり、防波堤・防潮堤は十分でなく、情報入手先であるテレビは一般家庭にはまだなく、ラジオも携帯ラジオはまだ普及してなく一般電源の真空管のラジオが主流のため停電になると役立たない代物であった。
従って、台風による高潮で防潮堤が危なくなっても、それらの情報は現在のように随時入手することは不可能で、結果的に避難が遅れ大惨事となってしまった。
現在では防潮堤も整備され、情報入手も随時可能の為、もし同じような台風が襲来したとしても、今度は大丈夫であろう。
ただ予想される東海・南海・東南海の地震が連動して起きた場合、大津波に絶えうるかどうか??
今度の地震をみて、現在もその地に1人で住んでいる母親は、自分が亡くなっても新しく建替えたばかりの家であるが決してこの家に住むなと言っている。海から近いので津波で危険と言っている。
お盆から始めて一連の検査を終えた。8/16 検査予約(血液検査)・8/17 胃カメラ・8/19 CT(造影 胸部~腰部)・8/26 大腸ファイバー
横行結腸癌(大腸癌)の手術後まる9年たった。手術後は毎年上記の一連の検査をしている、
ただし胃カメラについては会社の健康診断で胃透し(バリウム)検査をしているので、当初はしていなかったが手術後3年目からするようになった。
また肝心な大腸については毎年大腸ファーバーによる検査をしていたが、術後ポリープがあった年もあったが経過は良く接続個所も殆ど判らないくらいになっているため昨年初めて検査を飛ばした、従ってこの検査のみ2年ぶりである。検査を飛ばした理由は、術後の経過が良いのと大腸は進行が遅いので2~3年に1度の検査で良いとの医者の判断による(胃は進行が早いので毎年した方が良いとのことで実施)。
胃については、術後に胃の変形が起きていたが、昨年会社の健康診断の胃透しで隆起性病変を指摘され、その後飲んだ胃カメラで検査した結果は問題がなかった。今回の検査でも隆起性病変(ポリープ)の大きさは昨年と変わらず病理検査の結果も問題なかった。
その他の検査結果も今年は特に異常は発見されなかった。一安心だ
3/9に初めて脳のMRI検査を受ける。
特に何もなかったのだが、たまたま当家の山ノ神が脳のMRI検査を受けると言うので、一緒に受けることにした。
8年半前の2002年に大腸癌の手術を受け、腹部のCT検査は毎年受けているものの脳の検査はしたことがない。
転移よりも脳が萎縮しているのではないかと そちらの方が気にかかる。
結果 「くも膜下のう胞」があると診断される、約2㎝。直ちに何か治療をする必要はないとの事。
経過観察で1年後に再度MRI検査を受けたほうが良いといわれる。
ネットで調べたら先天的なものも多いらしく、MRI検査をして発見される事例も多いらしい
何か症状がなければ特に問題ないらしい。
検査結果は山ノ神が聞きにいったが、主治医に「くも膜下のう胞」の他に「脳の萎縮はないか」と聞いたところ、「ご主人の方のみに若干その徴候が見られると言われた」とうれしそうに(?)のたまわれた。
変に納得してしまう。
夜、家のベランダにいたちが出現した。娘が髪を乾かしていて、ベランダで動いているものを発見。
当初ねずみかと思ったらしいが、胴が長く少し大きいのでフェレットらしいと騒ぐ。
リビングの履き出し窓からみるとベランダにおいていたゴミ箱を覗いていた、暫くにらめっこ状態、
毛が短いのでいたちのようだ。こちらが騒いでいたので直ぐにどこかに逃げてしまった。
当方いたちを見るのは初めてだ。こんなところに出現するとは・・・。
3/11の「東日本大地震」以来何かがおかしい。余震の震源地が段々と南下してきている。関西にも天変地異が起きる前兆か?
平成23年3月11日(金)14:46 三陸沖(牡鹿半島)東南東130㎞付近でM9.0の巨大地震が発生した。
震度は現地(宮城県栗原市)での最大震度=7 東京=5強 名古屋=4 大阪=3 であった。
地震発生時に当方は大阪市内にある会社のビルの3階で勤務中であったが、初めはゆっくり体に揺れを感じたため目まいでもしたのかと思ったが、周りにいた人がザワザワし始めたため地震と認知。ゆっくりとユラユラした揺れが結構長く続いたように感じた。ドカーンと来る直下型の地震と違い、遠方で起きた地震による長周期地震動の特徴らしい。
M9.0は国内では昭和三陸沖地震(S8年)のM8.4を抜き観測史上で1番、世界でも1900年以降4番目の巨大地震との事。
地震の恐ろしさはさることながら、ほんの一瞬にして全てを破壊してしまう津波の脅威には、ただただ驚くばかりである。
未曾有の自然災害とはいえ、被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げるしかない。
あるテレビのコメンテーターは、今回の地震・津波への備えが想定外だったの一言ですましてよいのか、と批判的な発言をしていた。ではどうしたらよいのか? 結果論であればなんとでも言える、経済を度外視して1000年に1度の災害に備え対応する事は現実に不可能である、それを想定しておけ と言うのか?
残念ながら、過去に何度も津波の被害を受け、防波堤の整備・避難訓練をしていた地域でも今回の惨事は防げなかった。未曾有の大自然の脅威の前には人知が及ばなく、抗いようがない。不運といえばそれまでであるが・・ 何をどうしたら良かったのか答えが見つからない。
私にはその発言を聞いたとき、避難訓練などをしていたにも係わらず災害に遭ってしまった被災地の方々に、備えが想定外ですましてよいのか と言うのは、全く思いやりのない無責任・偽善的な発言をする人だと憤慨した。
今しなければいけないことは、被災を受けた人々に一刻も早く安心感を与え、復旧・復興を早急に立ち上げる事である。
こんな困難があっても、この国に生れて・この国に住んでいるということが、本当に良かったということを被災者が感じられるように、政府・国民は全力を挙げて対処しなければならない。
この国が世界中のどんな国よりも安全で秩序があり友愛に満ちたすばらしい国であるということを、再び全世界が羨望の眼で見られるよう発信しなければならない。
まずは我々が出来ること、義援金から始めよう。
家族全員+たまたま家に来ていた娘の婚約者から義援金を徴収した。 → 3./14(月)義援金振込
早いもので還暦を過ぎた。自分的には全く定年の年とは思えなく体のあちらこちらにガタが来ているとはいえマダマダ元気だ(本人がそう思っているだけかも?)
自分が会社に入社したころは定年間近の人を見たら相当年を取っているな と見ていたが、今の若い人から見ればやはり同じか?
とはいえまだ元気が残っており、勤めている会社は定年後1年契約の嘱託制度を採用しているのでもうしばらく現役で働く予定だ